花藍舎-KARANSHA
染織家 宮良千加-Chika Miyara




「もの作りに真っ直ぐに向き合う人」
宮良千加さんに初めてお会いしたのは西表島の上原港だった。私が西表島の紅露工房に研修生としていた頃のこと、工房から港にお客さまを迎えに行くと、小柄で笑顔が素敵な女性が待っていた。それが千加さんだった。
それから約2週間、私たちはともに布作りに没頭した。蒸し暑い西表の夏。汗だくで腹ペコになりながら、陽が落ちる頃にはクタクタで、夜は倒れるように眠った日々が懐かしい。
工房で寝食をともにする間、千加さんは長年の経験で培った染め織りの技術を私たちに惜しげもなく伝え、その一方で芭蕉の糸づくりの技術を貪欲に学んでいた。もの作りに対して真っ直ぐに向き合う人。その表現がぴったりの人だと思った。
千加さんは、その頃から変わらず、今も沖縄県うるま市の『花藍舎』という工房で布を作っている。工房を開いて、2021年でちょうど10年を迎えるそうだ。
西表の日々を共に過ごし、仲良くなった私たちは、お互いにたくさんのことを話すようになった。私が聞いて印象的だった、千加さんのもの作りの原点となっているエピソードをご紹介しようと思う。
「沖縄へ」
大阪の布地屋さんを営むご両親のもとに生まれた千加さんは、幼いころからたくさんの布を見て育った。お店で扱っている布は全て機械織りのものだったけれど、高校生の頃に親戚のお兄さんが買ってきたインドネシアのイカットの手織りの布を見た時に、その素晴らしさに感動して染織家になると決意したそうだ。
そして、進路を決める時に、沖縄にたくさんの染織が残っていることを知り、沖縄へ行くことを決める。琉球大学に見事合格し沖縄での学生生活をスタートさせながら、染織の師匠を探すことにした。
「やちむん(焼き物)修行」
大学入学と同時に沖縄に移住し、学生生活を送りながら染織の師匠を探し始めた千加さんだったが、当時はインターネットがない時代。師匠を見つけるには、県内で開催される様々な展示会に足を運ぶしかなかった。しかし、なかなか心魅かれる布に出会わない。
展示会は染織だけではなく、やちむんの展示会も同時開催していることが多かったため、次第にやちむんを目にする機会が増えていった。そして展示会に行く度にドキッとするやちむんに出会う。作者を見ると、全て島袋常秀さんの作品だった。
島袋常秀さんは壺屋の焼窯元ご出身の陶芸家で、当時は既に沖縄県立芸術大学の助教授になられていた。常秀さんの工房が読谷村のやちむんの里にあることを知った千加さんは、思い立ったら即行動、弟子入りを志願するために那覇からバスで読谷村を目指した。工房に着くと、偶然、常秀さんご本人がいらっしゃって、早速弟子入りを直談判。その場で「来たらいいさぁ」と常秀さんからあっさりOKをもらう。あとで聞くと「すぐやめると思ったから」というのが理由らしいが、そんな流れで千加さんのもの作りの第一歩が始まった。
「沖縄に遠慮せずにものを作り続けなさい」
当時、常秀さんの工房には兄弟子が3名いて、弟子同士、切磋琢磨しながらたくさんの作品を作った。手を動かし、とにかく量を作ることでしか得られない技があるということを身をもって実感する日々だったという。
充実したやちむんの修行生活を送っていたある日、友人と那覇の栄町の「うりずん」という居酒屋に飲みに行った。カウンターに通されて座ると、目の前に置いてある灰皿が、なんと偶然にも千加さん本人が作ったものだった。「この灰皿は自分が作ったものです」と、当時の「うりずん」のオーナー、土屋實幸さんに話すと「自分はこの灰皿が大好きなんだ。今度灰皿を作って持ってきなさい。全部買い取るから」と言ってくださった。
自分が作ったものを認めてもらえたことが嬉しくて、さっそく灰皿をたくさん作り、すぐに土屋さんのもとに持って行った。ところが土屋さんの反応は全く予想外のものだった。
「いいか、たばこを吸う時は、こういう風に灰皿にたばこを置くんだ。よく見てごらん。これではたばこが落ちてしまう」「この灰皿は使う人の気持ちがわかっていない」
千加さんにとって、その言葉は衝撃的だった。今まで自分は使う人のことを考えてもの作りをしていただろうか。
でもその後、土屋さんは優しくこう言ってくれた。「また、作って持っていらっしゃい」
それから自分なりに模索しながら、灰皿を作っては土屋さんのもとに持って行った。火を消す時のことを考えて、鎬(しのぎ)という技法を使い、火消し用の凹凸模様を底に作った灰皿を持って行った時はとても喜んでくれた。もの作りは独りよがりではいけない。その先に使う人がいるのだから。土屋さんとの出会いで千加さんはものを作る時のスタンスが変わったという。それからも土屋さんには可愛がってもらい、ある日、こんな言葉をかけてもらった。
「沖縄に遠慮せずにものを作り続けなさい」
このお話しを千加さんから聞いた時、私は土屋さんの愛情あふれるこの言葉に、目頭が熱くなった。「沖縄に遠慮せずにものを作り続ける」という言葉は、特に内地から移住し、沖縄で手仕事を志す人たちにとって、とても心に刺さる言葉になるのではないだろうか。
内地とは全く異なる沖縄の地に身を置き、文化や伝統を学ぶ。その時間がどれだけ長くとも、もの作りで表現されるのは、生まれ育った環境や経験した人生、価値観すべてが投影された自分自身であって「沖縄」ではないのだ。
自分は何者なのか。それを常に考え表現していくことの勇気と学ぶことの謙虚さを持ち合わせることが、生きること、そのものなのかもしれない。
「金城次郎さん」
千加さんは大学卒業と同時に、島袋常秀さんの工房を卒業し、やちむんの人間国宝、金城次郎さんの工房で働くことになった。
ある日、千加さんは「ぐい呑み」作りを任されることになった。人間国宝、金城次郎さんのぐい吞みである。とにかく次郎さんの形を正確に再現しなくてはと、目の前に次郎さんが作った見本のぐい飲みを置き、トンボ(ろくろ成形のときに深さと幅を測る道具)で大きさを測りながら、見本と同じ形・大きさになるようにろくろを挽いていた。すると後ろから「ちがう、ちがう」と声がする。振り返ると次郎さんが立っていた。
次郎さんは、言葉で説明するでもなく、とにかく見ておきなさいと目の前で自らろくろを挽きだした。あっという間に出来上がるぐい吞みは、形も大きさも全てバラバラ。
一体なぜだろう。不揃いのぐい吞みをよく見てみると、飲み口の角度は全て同じだということ、そして持つ部分は、後でほとんど削らなくてもいいように、均一な厚さになっていることに気が付いた。
これは次郎さんが、どうしたらお酒を美味しく飲めるかを、とことん考えて作ったからこそできることだった。口に入る時に、飲み口が口当たりの良い角度になっているとお酒が美味しい。手で持つ部分を後で削らなくても良いように成型すると、ろくろで挽いたままの土の感じが残って手触りがいい。そんなぐい吞みでお酒を飲んだら、また更にお酒が美味しい。次郎さんの作ったぐい飲みはこの2点は守られながらも、それ以外の形は様々だった。
なるほど、お皿やお茶碗のように重ねる必要のある食器は同じ大きさ、形に揃えないと使い勝手が悪いが、ぐい吞みのような嗜好品は大きさや形は関係ない。お酒を嗜むのだからむしろ不揃いの方が楽しめるということもあるかもしれない。
押さえるところと抜くところを、使う人の気持ちになって考える。もの作りの神髄を次郎さんは背中で教えてくれた。
「藍染めの島、小浜島」
次郎さんの工房で働いている時、千加さんはお休みをとって、沖縄県八重山諸島にある小浜島へ旅行に行くことになった。
小浜島と言えば、女性が家族のために藍で染めた紺地の着物を織る島。今もお祭りの時は、紺地の着物を着た男性が長老から若い人まで、むしろの上に並んでザーっと座る。その景色は圧巻だ。
藍染めの島、小浜島の旅行を楽しんでいると、千加さんは大量の葉っぱをリヤカーで運んでいるおばあさんに会った。「これは何ですか」と声をかけると、見たければついてきなさいと言われた。それが、のちの千加さんの染織の師匠、成底トヨさんとの出会いだった。
トヨさんの後をついていくと、この葉っぱは藍だと教えてくれた。インド藍や琉球藍を使う藍染めは、植物の藍の葉っぱを水に浸けてインジゴという青の成分を沈殿させて色素を取る。その色素を抽出したドロドロのものを泥藍というが、ちょうど泥藍を仕込み始める時だった。
作業を手伝いながらご自宅にもお邪魔し、トヨさんが織った着物を見せてもらった時に久しぶりにドキッとした。昔、展示会で島袋常秀さんのやちむんを見てドキッとしたときと同じ感覚が千加さんの中に走った。
小浜島から戻り、またやちむんを作る日々に戻っても、あの着物のことが頭から離れない。高校生の頃に見たインドネシアのイカットの手織りの布や自分は染織家になると決意した記憶が蘇る。
きっと、ずっと探し続けていた染織の師匠はトヨさんなのではないかと思った。意を決して電話をかけ、弟子入りしたいとお願いすると「来たらいいさぁ」と、これまたあっさりトヨさんにOKをもらう。
それから間もなくして、千加さんは小浜島で染織の修行をスタートさせることになった。藍の栽培、泥藍づくり、藍建て、染め、織り。毎日、トヨさんの後をついてまわり、技を盗み続けた。
口数が少ないトヨさんの技を盗めたのは、きっとやちむんの修行を積んでいたから。もの作りの工程の背景を考え、自分なりにとらえ続けてきた千加さんだからこそできたに違いない。
小浜島の紺地の着物は、糸に藍を何度も重ね、何カ月もかけて限りなく黒に近い茄子紺色に染め上げる。その着物は島の人たちのためのもの、家族のためのもの。
暮らしの中で生まれ、暮らしの中で使うもの作りが、今も千加さんの中に脈々と受け継がれている。
「使う人の暮らしを潤すものを作りたい」
千加さんと話していると、私はいつも笑顔になってしまう。だって、千加さんはどんなコトも笑い飛ばしてしまうから。大変なこともあるけれど、すべて昇華してきっと今のもの作りに結び付いているのだろう。
染織家になりたいという夢を抱きながらも、やちむんの修行をしたことは彼女にとって回り道ではなく、必要なことだった。何も無駄なことはない。すべてあなたの糧になっていると、千加さんの人生を通して私自身も言われているような気がする。
千加さんのもの作りの原点には、若いころに出会った素敵な大人たちからの教えと、それをスポンジのように素直に吸収し、探求し続けた日々がある。
「使ってくださる人の日常を潤すものを作り続けたい」と言う彼女は、独りよがりなものは作らない。
徹底的に使い手の立場になって工夫された機能性と、もの作りに真っ直ぐな千加さんの感性が結びついた時、それは、きっと誰かの手元で長い間使い続けられ、その人の暮らしの一部となって新たな価値を生みだしていくに違いない。


